夏生さえりの「ティファニーで朝食を食べられなかった私たち」

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【第27回】視線の量と好意

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夏生さえり
ライター
出版社勤務を経て、Web業界へ。人の心の動きを描きだすことと、何気ない日常にストーリーを生み出すことが得意。好きなものは、雨とやわらかい言葉とあたたかな紅茶。 著書に『今日は、自分を甘やかす いつもの毎日をちょっと愛せるようになる48のコツ』(ディスカヴァー・トゥエンティワン )はじめ、本連載に書き下ろしを加えた22篇のエッセイ集『口説き文句は決めている 』(kraken)が好評発売中!

以前、「目に愛を込めて」というコラムを書いた。バレンシアに滞在していたころ、わたしを好きになってくれたスペイン人の話だ。彼の目は、言葉以上に気持ちを伝えてきた。わたしがたじろいでしまうほどに。

 

最近になって、やっぱり「視線」は好意を表す、と改めて思う。

 

 

***

 

 

昔「きみのことが大好きだよ」と言ってくれていた男の人が、わたしのことをあまり見てくれないことがあった。

 

わたしたちは当時付き合っていて、彼は「きみのことが好きで好きで仕方ないんだ」というようなことをいつも言ってくれたけれど、実際は女の人の影がチラチラとあった。
 

当時のわたしは彼の顔も好きだったので、ことあるごとに彼を見つめていて、どんな風に笑って、そのとき顔のどこにシワができるのかをいつも見ていたのだけれど、わたしが彼に送る視線が10だとすると、彼からかえってくる視線は3程度だったように思う。

 

視線の量が釣り合っていれば、3であれ、1であれ問題はないけれど、あまりに視線がかえってこないので、だんだんとわたしは彼の気持ちを疑うようになった。
 

そんなに好きというなら、この視線量はおかしくないか?
 

もちろん「恥ずかしくて直視できない」とか「本当は見ているけど気づいていない」とかならまだしも、こちとら四六時中見ているのだから「見ていないこと」くらい、わかっている。

 

……女の人は些細な矛盾に敏感なのだ。

 

わたしはなんでも気になったことは聞かずにいられない性格なので「わたしのこと、あんまり見ないよね」と、どストレートに言ってみたこともある。
 
けれど、口の上手な彼は「気づいていないところで、すっごく見てるよ?」とか「顔も好きだから、こっそり見てるんだよ」とか答えた。(そんなわけない、だってわたしはずっと見ているから知っている)。
 
わたしは仕方なく「好きなら見つめたくなるはずだ」という持論を覆し、「そういう人もいるのかもしれない」と納得しようとした。
 

そうしてそれ以来、その問いは心の中にしまうようになった。
 
他に女の人がいたのかは、知らない。わたしのことをどれだけ好きだったのかも、本当のことは知ることができない。

 
けれど、そのあともいくつかの恋をしてきて、やっぱり思うのだ。

 

 

「視線の量」は好意と比例する。

 

「もう、見ないでよ」と笑ってしまうほどの視線を浴びせてきて、「なにニヤニヤしてるの?」と怒りたくなるほど口元が緩んでいる。

 

そういう男の人を、わたしはそのあと知ることになる。照れ、とか、自信がない、とか、視線の量に関する様々な言い分はあるだろうが、それでもやっぱり、視線は好意の量が現れているのではないか?
 

それが最近のわたしの答えだ。

 

特に食事中の視線の量は、好意に比例する(と感じる)。

 

食事は本能的なものだし、目の前に美味しい食べ物があって、食べること・話すこと・聞くことと、やることも多い。

 

そんななか「見つめること」をしてくるなんて、よほど好きじゃないとできないんじゃないか、と思うのだ。

 

 

***

 

先日、カフェで仕事をしていると斜め後ろから「カシャ」「カシャ」「カシャ」と何度もスマホのシャッターの音がした。女の子たちの自撮り…にしては、はしゃぐ声が少ない。
 
なんだろう、と振り返ってみると「パフェを食べる彼女をひたすら撮る彼氏」のシャッター音だった。彼のパフェは、手付かずだった。

 

彼女の顔は見えなかったけれど、「もう、聞いてんのー?」と、すこし怒っている声だけが聞こえた。

 

「あーっ、ごめんごめん」

 

彼は声に笑みを浮かべながら彼女の頭を撫で「それで、山田さんがなんだっけ?」と話を促していた。

 

「もう、いつも話聞いてくれないんだから」

 

彼は慌てて言う。

 

「嬉しそうに話しているのがかわいくて、つい…」

 

それ以降、彼女の声は聞こえなくなってしまった。きっと照れたのか、「そんなこと言われたら怒れなくてずるい…」と思ったのか。そんなところだろうと思う。

 

やっぱりこういうのだよな、なんてわたしは1人、心の中で思った。恋人のことが好きになればなるほど、この一瞬も残すことが出来ればいいのに、と思ってしまう。
 

恥ずかしいから目をそらしてしまう…なんていう付き合う前の気持ちはどこかへ行ってしまい、相手のことを見たい、という気持ちだけで見つめてしまう。全部全部しっかり見つめて、脳裏に焼き付けたい。そんなふうに思ってしまう。

 

年をとれば、そういうこともなくなるのだろうか?
付き合いたてだけなのだろうか?

 

と不安になった途端、それらを払拭してくれるような出来事もあった。

 

先日、60代くらいと思われる夫婦が食事の際にしっかりと顔を見つめながらお話をしていたのだ。
 

相手の顔を見つめて、時に微笑みながら。こんな風に、年をとることも可能なのだ。そう思うと、急に安堵した。
 
もちろん、まったく見つめ合うことなくお話をしているカップル・夫婦は「関係が冷めている」などと推測する気はない。
 
彼らには彼らなりの関係性があるのだろうし、視線の量は最初に書いたように釣り合ってさえいれば何の問題もないのだ。
 
ただ、少なくともわたしは。
 

「見つめ合って、年をとる2人」になりたいと思った。

 

日本人は目を見なくても会話ができる。おそらく、目を見なくても(そして大げさなジェスチャーをしなくとも)会話ができるような文化なのだろう。
 
実際、仲良くなればなるほど相手の顔を見ていないことなんてよくある。
 
それはそれで信頼の証、積み重ねの結果であるのだけれど、「見つめたい」と思えるような人に、「見つめたい」と思われながら、年老いていきたいものである。

 

 

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